元日本弁護士連合会会長 弁護士荒 中
東北大学法学部受験合格体験記
福島県立相馬高等学校昭和48年3月理数科卒業
荒 中(あらただし)
1、初めに
この度、高校の先輩であり、相馬高校の同窓会である馬城会京浜支部長の門馬博様から、受験時代のことなどについて書いてほしいとの要請を受けましたが、私が大学受験をしたのは昭和48年(1973年)の2月から3月にかけてであり、今から53年も前のことであって、当時の受験制度と今日の制度は大幅に変わっており、また、時間が経過していることもあって自分の記憶も不鮮明なところが多々あり、今回の要請をお受けするのはいささか無理があるように思われましたが、同窓会では先輩からの要請は格段の重みがあり、額に汗をかきながら無くなりかけた記憶を喚起するとともに手持ちの資料等をもとに、以下のとおり作成させていただきました。
2、相馬高校への入学と高校での生活について
私が相馬高校に入学したのは昭和45年4月であり、今から56年も前のことです。ちょうど大阪において日本で初の万国博覧会が開催されており、アメリカ合衆国のパビリオンでは『月の石』が展示されて多くの人々が見に行きました。そのような時代に入学したのですが、前年度の昭和44年度から相馬高校では理数科が新設されていました、今にして思えば、このようなクラスを福島県内の幾つかの旧制中学でもあり伝統のある高校に創設することにより進学実績の向上ないし底上げを図ろうとするために新しいカリキュラムのクラスを設けたものだったように思います。私はこのクラスの創成期である2期生として入学しました。この新設された理数科は、1クラス45名でしたが、①3年間クラス替えがないこと、②もともと相馬高校は男子校でありながらこのクラスだけ男女共学となっていたこと、③1年生から理科と数学の授業が多く理系の一部の科目は学年を前倒しをして履修することなど、これまでとは違うカリキュラムでの教育がなされたこともあり、これを実践する先生たちも大変だったのではないかと思います。そんな先生たちの苦労をよそに、私たちは先生の都合で授業が休校になると天候がよければ全員がグランドに出てサッカーに興じるという今では考えられないような学校生活を送っていました。
私たちは、3年間一緒の学業生活を送ったこともあり卒業してから50年以上経過していますが、現在も地元相馬で、また福島県内の温泉で、あるいは仲間の多い仙台で同級会を開催するなど親しく付き合っています。
3、大学の受験について
(1) さて、理数科に進学した45人の仲間は、1年生の時に実施された全国規模の模試でトップグループに名前を連ねる成績優秀者、中学も高校もサッカー部においてセンターフォア―ドを務めチームをそれぞれ中総体と高総体の県大会で優勝に導いた選手、中学時代の野球部のエースピッチャーなど多士済々のメンバーであり互いに刺激を受けあうには十分な人材が揃っていました。
これらのメンバーは、その後の学業生活の中で当然のことながら進路を理系にする者が多かったのですが、しかし、その一方、かなりの仲間が文系を志望しました。私は、もともと、数学が好きだったこともあり理系を志望していましたが、高校3年の秋、志望校である東北大学工学部の受験科目となっていた物理の授業内容を理解するのが難しいと感じるようになり、志望の変更を検討せざるを得ない状況となりました。そのため、当時、私なりに悩んだ末にいわゆる『文転』することを決意し、紆余曲折はありましたが志望大学は変えず志望学部を文系に変更することにしました。受験まで5、6か月しかない時点での『文転』であり、先生からは大変驚かれましたが、今さら後戻りは困難であり、志望大学の受験科目に集中することにしました。志望学部を決めるにあたっては、あまり時間がなかったこともあり、なるべく将来の進路が狭まらないように学部を選択するということも考えながら、やや記憶が不鮮明になっていますが、結果としてあくまで迷った末の最後の手段として不遜にも消去法で法学部を選んだように思います。(そのようなわけで、自分が後日、司法試験を受けるなどとは夢にも思わず学部の選択をしていました。)
(2) 当時、東北大学の文系の試験は、国語、数学、社会(日本史と世界史を選択)、理科(化学を選択)、英語の5科目でしたが、もともと、数学はかなり難易度の高い出題がなされるため、主として文系の科目を得意とする受験生は苦労すると言われていました。理系から『文転』した私でしたが、国語はどちらかというと苦手な科目ではあったものの、数学はもともと直前まで理系志望者としてそれなりに力を入れて勉強していたことや歴史も好きな科目で上記の2科目を勉強していたことが幸いし、何とか2月までの受験の準備期間中に間に合わせることができました。しかしながら、理系志望だった時点でも文転した後も合格水準に達していたかといえば、まだまだ、そのような水準に達しているとの客観的な評価も自らの実感もなく、ただただ現役の強み(3学年の中盤から後半にかけて学力が向上するという期待値、伸びしろがあると言われていました。)を頼りに受験勉強を続けていたように思います。とはいうものの、やはり、現実は厳しく、当時合格水準までの壁はこれをクリアするにはかなり高く、あるいはこれを突破するにはかなり厚く感じていたように思います。それでも、今にして思えば、受け身にならずにチャレンジ精神旺盛に、言い換えると怖いもの知らずに受験勉強を継続していたように思います。
(3) そのような中、年が明けて3年生の2月に私立を受験することになりましたが、各大学の学部毎の受験期日を考慮し、中央大学、明治大学、慶応大学の法学部を受験しました。ちなみに、慶応大学法学部の受験科目は数学が必須とされており国立文系の受験科目に近かったことからこの大学を受験することにしました。ところで、志望する私立大学の倍率は募集定員の20倍以上になっていました。もともと辞退者がかなり出ることを見込んで定員よりも多くの合格者を発表するということから、最終的にはこの倍率より下がるとしても、それでもやはりかなり高い倍率になることが予想され合格できるのかどうか大きな不安感を持ちながら受験したように思います。 (そのため、どの大学も滑り止めなどといえる心境で受験することはできず、大変緊張してのチャレンジでした。)ところで、当時、東京の大学は学生運動がまだ盛んな時期であり、私たちは厳重な警戒網が敷かれた中、入口で一人ひとり受験票のチェックを受け会場である大学に入った記憶があります。また、私は当時数少ない学生服姿での受験者であり、結果としてやや目立つ格好での受験だったことも記憶しています。
この私立大学3校の法学部には本当に運がよかったと思いますが何とか合格し、第一志望である東北大学法学部の受験に臨むことになりました。
(4) さて、第一志望校でもある東北大学法学部の受験ですが、当時は3月1日に卒業式が行われこれが終わってから各自受験校の所在地に移動していました。そのため、卒業式は解放感に浸って臨むことができたのは一部の生徒であり、多くは緊張感を持ち続けての式典になっていました。また、今と違ってセンター試験等はなく、3日間にわたる学力検査の結果によって合否が判定されていました。私は、会場となった仙台一高に3日間通い、前記の受験科目である国語、数学、社会(日本史、世界史)、理科(化学)、英語を受験しましたが、何とか、体調を崩すこともなく受け終わることができました。
合格発表は2週間後ぐらいだったと思いますが、当時、東北大学の片平キャンパスに合格者の氏名が記載された大きな紙が張り出されて行われていました。(テレビ中継でこの掲示板が映されていたような記憶があります。)幸運にも私の氏名が記載されており無事合格することができました。翌日、新聞に掲載された合格者氏名により、相馬高校から9名(現役5名・浪人4名)合格していたことがわかりました。同窓会名簿や私の記憶によれば、その後の合格者を含めると私たちの学年は最終的に東北大学に10名(文2名、法1名、経2名、理2名、工2名、医1名)合格することができ、そのうち、理数科からは9名合格することができました。そのほか北大に3名、福島県立医大に1名合格するなど国公立大学に20数名合格し、クラスの過半数が国公立に合格するという成果を収めました。また、私立大学も早稲田大学、慶応大学、中央大学、上智大学、明治大学などに10数名合格しており、新しいカリキュラムのクラスが創設されてこのような成果を収めることができたことで、先生たちが大変喜んでおられたのを覚えています。
4、まとめ
(1) 以上が、私の大学受験の体験記となりますが、私からの在校生の皆様へのメッセージは以下のとおりです。
① 高校時代を過ごす皆さんは成長の過程にあり可塑性に富んだ存在にあって、決して進路は1つではなく自分の気持ちに従い柔軟に考えることも必要だと思います。
② 定期試験の結果、模擬テストの結果などは受験勉強の途中経過の中で自分の進路を決めるにあたりそれなりに重要な指標になりますが、しかし、現役の強み、自分の伸びしろの存在を信じつつ、あまり早い段階で自分の実力に見切りをつけることなく粘り強く受験勉強に集中することも肝要かと思います。
③ 自分の強み(得意な分野、集中し頑張れる科目)が何かを自覚し、これを最大限生かせるようにすることも大切だと思います。
(2) 最後に、結びに代えての話になりますが、私たちは、新しい学科が創設され、クラスには丸森町、鹿島町、新地町など隣接する町村を含む様々な地域から多種多様な人材が集合した中で刺激を受けあいつつ切磋琢磨することができたこと、クラスでは新しいカリキュラムのもとで理系の科目について前倒しをするなどして重点的にこれを学ぶ機会を持つことができたこと、クラスの多くの級友たちが自分の志望校の合格のため努力を重ねた結果、現役の級友はもちろんのこと、これに加えて少なからぬ級友が浪人を経て念願の志望校に合格することができたことなどもあり、最終的には、当時近年にはない大きな成果を収めることができたと言われていました。これは重ねてになりますが、新しいカリキュラムへの円滑な移行のため力を注いでいただいた先生たちのお陰と心より感謝しています。また、多感な青春時代の3年間を同じクラスで過ごしながら、ともに悩み、ともに学びながら信頼関係を高めることができた級友の存在もまた以上のような成果をあげることができた大きな要因だと思っています。級友間のこのような関係はその後も続き、現に卒業してから50年以上経過した今もなお『同じ釜の飯を食い、苦楽を共にした仲間』として親しく付き合うことができています。これは大変ありがたく、心強いことであり、私の大きな支えにもなっています。在校生の皆さんも、近年卒業された皆さんもこのような関係が築けるような付き合いを重ねていただければ幸いです。
